小林紀由研究室

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zoom RSS わが国におけるポストコロニアル宗教批判と宗教概念の再検討(1)

<<   作成日時 : 2009/02/23 16:12   >>

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以下は『精神科学』(日本大学哲学研究室、45号pp.13-33、2007年)に掲載された論文をホームページ用に加工したものです。雑誌掲載の本来の論文とは注の付し方、若干の表記などにおいて異なります。引用される場合は雑誌掲載論文によってください。

日本におけるポストコロニアル宗教批判と宗教概念の再検討

1.目的
 わが国における宗教情況は戦前と戦後において一変したとし、両者の間に断絶をみる理解は一般的であった。例えば脇本は戦前の宗教情況を「宗教に対する国家主義の優位」(脇本1965:265)ととらえ、それに対し戦後のそれを「信教の自由」(同:266)と対比させる形でまとめている。この理解は法制面における宗教集団の位置づけについてみる限りにおいては今日においても誤りであるとは言えない。しかし、戦後1960年代には顕在化し今日にいたる靖国神社をめぐる様々な動きなど、国家主義的な国家と宗教との再結合に向かう動向は戦前の宗教情況が戦後社会においても払拭されたわけではないことをも示しているように思われる。末木が靖国神社問題を代表的事例とし、宗教をめぐる戦前・戦後関係を今日のわが国宗教学における未解決の問題として論じる(末木 2006:218)のは重要な指摘と言わねばなるまい。わが国の今日の宗教情況を理解するにあたり、戦前と戦後の断絶を語る語りは適切なものであろうか。むしろ、断絶の語りは宗教における戦前情況の継続を隠蔽する言説として機能してきたのではなかろうか。
 戦後わが国社会において、宗教研究者あるいは宗教者が戦後もつづく戦前の宗教の在り方への批判を強めるきっかけには靖国神社問題があった。靖国神社は、戦前の国家神道体制を代表し、わが国近代の植民地獲得戦争を含む、国家により正当とされた戦争と密接な結びつきを有する代表的施設と認識される(後述)。従って、靖国神社問題を通して問われるわが国宗教状況の戦前・戦後関係とは、少なくともその重要な部分において、植民地獲得戦争、植民地支配を正当化する言説の戦後における継続を問うという側面を有している。本稿においては、このような理解から、わが国におけるポストコロニアリズム研究の成果を視点としつつ、靖国神社問題への取り組みからなされた国家神道研究、また同じ立場から宗教批判へといたった研究者の著作を取り上げ下記目的のための研究対象とする。
 靖国神社問題顕在化後に問われた戦前・戦後に継続する宗教の在り方とは何か。宗教は国家主義的傾向に、そしてコロニアルな言説に一時的に支配されただけであり、本来の宗教は人びとを解放するものなのであろうか。あるいは、宗教は国家主義やコロニアリズムとそもそも親和性の高いものなのであろうか。靖国神社問題は、単に「信教の自由」に関する問題にとどまらず、戦後わが国における宗教議論に、宗教そのものに対する根本的問いを投げかけるものであった。本稿は、靖国神社問題顕在化後になされた宗教批判(本稿においてポストコロニアル宗教批判と称する)が問いかける宗教概念を明らかにし、「私事」また「心の救済」としての「近代宗教概念」の再検討の動きにひとつの視点を加えようとするものである。
 わが国宗教学に多大な影響を与えた岸本英夫は、宗教を「人間の問題の究極的な解決」(岸本 1961:17)とかかわるものととらえ、その「解決を必用とする人間の問題」を心理的欲求の葛藤の問題として示した(同:19-26)。岸本は「解決を必用とする社会独自の問題も生ずる」(同:27)とはするものの、これを宗教上の問題としての「人間の問題」とはとらえない[1]。岸本の立場は「私事」にして「心の救済」にあたるものとしての宗教概念をよく示したものと言えよう。わが国におけるポストコロニアル宗教批判はこのような宗教概念に対し変更を促すものである。
 言うまでもなく、宗教学の創出した宗教概念は私的な心の救済としてのそればかりではなかった。デュルケム(1975上下巻[1912])はその全体を通し、人を社会に結合させる「集合的な力」(同上巻:379)「集団の統合をなすもの」(同:82)としての宗教観を提示している。確かに、デュルケムがモデルとした古代宗教に対し、近代国家の下、公的立場をおりた諸宗教集団は、もっぱら「私事」として「心の救済」にあたるものとなったように見える。本稿においてはそのような特徴をもった宗教概念、すなわち、個人がもっぱら「私事」にかかわるものとして自由意志をもって参入する特殊的宗教集団としての「教団性」と、「心の救い」としての「救済性」とをあわせ持った宗教概念が示す宗教を「近代宗教」の語をもって表現するものとする。岸本の宗教学は、主としてそのような「近代宗教」を研究対象とする限りにおいて、わが国宗教学の主流を形成してきたのだとも理解し得よう。

2.わが国におけるポストコロニアリズム研究
 1970年代後半以降、主として英語圏において、植民地支配が被支配地域に与えた衝撃を研究対象とする学問動向が生まれ、これはポストコロニアリズムと呼ばれるようになった。
 ポストコロニアリズムは一方では被支配地域にあてがわれ被支配地域の人びとをからめとった植民地主義的言説を分析対象とするが、他方では、同様の言説を創出した支配者側の言説をも分析・研究対象とするにいたった。すなわち問題の焦点は植民地主義的言説そのものにあるが、わが国のように植民地支配をなした歴史を有する国においては、後者の課題を避けて通ることはできない。
 ポストコロニアリズムは、その基本的立場からして、植民地主義的言説の終わりをではなく、植民地解放後もつづくそれを指摘する。わが国におけるポストコロニアリズムの立場に立つ研究者たちは、いかなる点にわが国の植民地支配破綻後も継続する植民地主義的言説を見出してきたのであろうか。
 わが国においては、ポストコロニアリズムの紹介・移入は1980年代より始まった。
 ポストコロニアリズムの先駆となったサイード(E.W.Said)の『オリエンタリズム』の邦訳[2]は1986年に出版され、以後サイードの他の著作や、スピバク(G.C.Spivak)、ファノン(F.Fanon)、スレーリ(S.Suleri)、バーバ(H.K.Bhabha)等の邦訳が1990年代、2000年代とあいついで公にされる。近年では啓蒙書の類いの邦訳もなされている[3]。
 わが国におけるポストコロニアリズムの独自の展開は、1990年代後半に入り現れる[4]。ここでは、宗教および宗教批判にかかわる成果に限定し、その成果の整理を試みる。
 姜はサイード『オリエンタリズム』をウエーバー、フーコーに遡及しつつ検討するとともに、戦前のわが国の植民地政策学等を取り上げ、「近代日本の文化的同一性が植民地アジアとの差異に依存しつつ、その差異を否定すべき<他者性>に転化させることで成り立ちえた経緯をあきらかにする」(姜 2004[初版1996]:94)。
 姜は戦後の日本社会においては1945年の出来ごとが「断絶」ととらえられてきたが、その意味は「忌まわしい『十五年戦争』は、輝ける日本近代の一時的逸脱であり」(同:135)、「戦後としての昭和は、日本の近代化というコンテクストのなかで新たな解釈をほどこされて、明治維新に次ぐ第二の飛躍ととらえられていた」(同:135)という。そして、そのような戦後言説空間のなかで排除あるいは隠蔽されてきたものとして、姜は米国、天皇制とならべアジアを指摘し、戦前のアジア観が戦後においても反復されていると主張する(同:134-138)。姜は、特に吉田茂の著作を取り上げ、「『国体』を中心とする近代化の物語」の反復・再確認をそこに見出す(同:136-138)。
 姜は、「国体ナショナリズム」をキーワードとし、近代のナショナリズム、とりわけわが国近代のそれを問う(姜 2001a)。姜は「(明治)憲法/(教育)勅語」により示された体系として国体をとらえるが(同:125)、それは立憲の「ウチ」に天皇を置くとともに、超法規的存在としてこれを「ソト」にも位置づける(同:68)体系であり、そしてその天皇に対する「自然の心」をして共同体を意味づけた「ココロ主義」(同:80)をその特徴としてとらえる。姜は、この「国体ナショナリズム」が戦後は日米合作の象徴天皇制(同:99)として継続されている、との見方を示す。
 姜はナショナリズムを「世俗的宗教」(同:7)と見る視点を示す。それは「人をまとめあげ、そして多くの場合狂気の淵に追いやることになった」(同上)ものであり、「宗教の歴史が、聖なる救済と血塗られた異端排除の交錯する歴史であったように」(同上)、ナショナリズムの歴史もまたそうであったと主張する[5]。
 川橋・黒木(2004)はポストコロニアリズムと宗教、そしてフェミニズムの問題に本格的に切り込んだ、わが国における最初の業績といえよう。両名の仕事は日系アメリカ人キリスト教女性と、「僧侶の妻」としての仏教女性の立場から、「主人の道具」としてのキリスト教、「家父長制の道具」としての仏教を「使いながら自らの宗教的主体を再創造する女性たちに焦点をあてる」(同:27)。両名にはまた、西洋中心主義的フェミニズムや、女性の権利を代弁するかの如き男性によるフェミニズムへの言及に対する違和感も共有されている(同:34,71)。
 わが国に特にかかわりが深いのは、川橋「仏教界の女性運動」(同:67-103)である。川橋は「伝統擁護」の立場をとる「保守層の僧侶たち」(同:70)の言説には「仏教こそが人間と自然の共生を可能にする非暴力的で寛容な宗教であり、仏教の精神性が西洋の好戦的な一神教の宗教を凌駕すると信じて疑わない点」と「女性には家庭で母親としてこの仏教の信心を子どもに伝える義務がある」と説く特徴があるという(同:71)。また、他方で人権論に立脚する男性仏教指導者たちには「仏教教団人権論のエキスパートである彼らこそが、彼女たちを『正しく』代弁できるのだ、という植民地主義的色彩」(同:71)があると批判する。
 川橋は「フィクションとしての出家主義」(同:72)を中心的批判の対象としつつ、「女性の生/性を拘束し、卑下する教えは誰にとっても救いをもたらす教えにはなりえない」(同:86)との立場から、また「仏教のなかに女性に解放をもたらす真理が存在すると信ずる」(同:87)立場から、「仏教を自分たちの手でよみがえらせたい」(同:86)とする女性たちを記述する。
 川橋・黒木の試みは、アジア人女性の立場から戦後においてもなおつづくコロニアルな言説に支配された宗教を解放し、本来の在り方を再生させようとの願いに基づくものである。
 川橋・黒木の研究は、わが国において、ポストコロニアリズムを表明しつつ、正面から宗教問題を扱った代表的研究といえよう。川橋の議論は、日本仏教にみられる男性中心主義と家父長制とを支える言説を戦後もつづくコロニアルな言説としてとらえている。しかし、川橋の議論はそれ故に宗教としての仏教そのものを拒否するものではない。コロニアルな言説と切断された仏教の再生を志向するものである。
 他方、先述した姜のナショナリズムをめぐる議論(姜2001a)は、ナショナリズムそのものを「世俗的宗教」とし、日本型のそれを「国体ナショナリズム」として批判する。この議論は、「権力構造の聖化」(後述)としての宗教そのものへの批判を予想させるものでもある。ポストコロニアリズムの立場に立つ他の多くの論者が、戦前と戦後の継続を保証した要因として象徴天皇制を指摘する点も、姜の「国体ナショナリズム」批判と通じるものであろう[6]。わが国におけるポストコロニアル宗教批判においては、このようなコロニアルな言説に支配された「主人の道具」としての宗教の在り方から、本来の宗教の在り方への回帰を主張する宗教改良主義的批判と宗教拒否的批判との両者をみることが出来るように思われる。権力構造を聖化する「主人の道具」は「主人の家」からの解放をもたらし得るものなのであろうか。この問いはポストコロニアリズムの視点から宗教を論じる際の最も重要な問題と言えよう(ルーンバ 2001[1998]:122,187)[7]。

3.国家神道研究
 わが国の戦前・戦後における宗教構造の断絶あるいは継続の問題を考える際、いわゆる国家神道をめぐる議論は極めて重要な意味をもつ。ここでは、近年の、靖国神社問題顕在化後の国家神道研究のうち、後述する広義の国家神道観にたつものの検討を通し、わが国宗教情況の戦前・戦後をつらぬく継続性を考察する一助としたい。
 国家神道なる語は戦前のわが国宗教体制に対しあてられた呼称である。そして、戦後、国家神道は解体されたとされる。しかし、国家神道をめぐる宗教学上の議論を検討すると、戦後日本社会において、必ずしも国家神道がその実質を失ったわけではないことに注意を促す議論が主流であることに気づく。ここでは、国家神道をめぐる戦前・戦後の断絶・継続をめぐる議論を中心に宗教学上の先行研究を整理する。
 戦後宗教学における国家神道をめぐる議論に最も大きな影響をもたらした研究成果は村上のそれである(村上 1970)。国家神道をめぐる議論は、狭義の理解にたつ立場からの議論と、広義の理解にたつ立場からの議論とに区分されるが(島薗2001b)、村上の議論は広義の理解にたつ立場の代表にあげられる(同:326)。
 すなわち、狭義の国家神道は、それを「非宗教として宗教のカテゴリーからはずし、国家の直接管理のもとに置こうとする宗教制度」(同:324)としてとらえられるが、村上は国家神道を「神社神道」と「皇室神道」、そして「国体の教義」の三者からなり、「国民の生活意識のすみずみにいたるまで、広く深い影響をおよぼした」(村上1970:i)ものととらえており、上述したように広義にこれをとらえる立場と理解される。
 村上は「国体の教義」の内容として以下の2点を指摘する。
 第1に、それは「何よりもまず、神である天皇が統治する大日本帝国の神聖性の主張」(同:141)であり、第2は聖戦教義である。
 聖戦教義については次のように記される。
 「国体の教義の中心には、世界における『神国日本』の絶対の優越性の主張と、全世界を指導する聖なる使命意識があり、天皇の名による戦争は、無条件に聖戦として美化された。」(同:144)
 村上はこの聖戦教義については「日清、日露両戦争をつうじて、国家神道はその軍事的性格を一挙に顕在化した」(同:144)ともいう。
 さて、国家神道の戦後日本社会との関係であるが、村上は「神道指令」が「旧権力の国家神道温存の企図を完全に打ち砕いた」(同:214)とし、1946年2月2日には「神祇院制をはじめ、すべての神社関係法令が廃止され、国家神道は制度上でも完全に解体した」(同:215)とする。一旦解体された国家神道であるが、戦後国家神道に対する無関心の中で、「政治の反動化」により、「靖国神社の国営化」が画されるにいたる。「天皇崇拝と軍国主義を結合した、国家神道のこの巨大な支柱の再構築は、国家神道の事実上の復活を意味する」(同:ii)との認識が示される[8]。
 菱木も広義の国家神道観をとり、その上で戦後における国家神道の継続を前提とした議論を展開している(菱木 1998)。靖国神社問題への同氏の取り組みはこの前提を形成する基盤とみなしてよいように思われる。
 菱木は広義の国家神道理解にたちながらもこれを修正し、以下のように国家神道を定義する。
 「国家神道とは、いわゆる『神道』を含むさまざまな要素を素材として、一定の政治目的に沿うように、1860年代以降に人為的に合成された宗教である。」(同:50)
 このうち、「一定の政治目的」については「日本のアジア太平洋地域への軍事的・経済的・政治的侵略に国民を動員すること」(同:53)ととらえる。
 以上のような国家神道観にたち、菱木は国家神道の「教義」を3点、以下のように指摘する(同:71)。
 1、聖戦「自国の戦闘行為は常に正しく、それに参加することは崇高な義務である」
 2、英霊「そうした戦闘に従事して死ねば神になる」「そのために死んだ者を祀る」
 3、顕彰「それ(英霊)を模範とし、それを見習ってあとにつづけ」
 菱木はこの教義は「1880年代の形成期から今日にいたるまでほとんど変化がない」(同:72)とし、靖国神社や護国神社が戦後もこの教義を保持しつづけているとする主張をなしている(同:72)。
 菱木はまた、死者をめぐる遺族の思い(国のせいで殺された)を、靖国・護国神社の教義(国のために死んだ)にすりかえる(同:79)、そのような死を意味づける、「悲惨、悲しみを喜びにすりかえる宗教ならではのトリック」(同:87)に、国家神道教義が戦後も継続される理由を見出している。そして、顕彰教義(これが国家神道の「政治目的」であるが)を宗教的トリックで粉飾する素材として皇室神道の中心教義「天皇現人神」思想や「万世一系」思想が用いられたとする理解である。
 島薗も、広義の国家神道なる語の用法を「鍛え直す」(島薗 2001b:327)との立場から議論を展開する。島薗は学校教育を中心媒体として展開された国家神道体制は、「公的次元に関わる国家神道と主に私的次元に関わる諸宗教との二重構造」(同:319)をなしたとし、「国家神道と諸宗教の間には、ある種の分業の関係が成り立っていたともいえるだろう」(同:338,339)という。島薗は非常時といった特別な場合をのぞいて、国家神道が諸宗教に対して「君臨する」というほど、「抑圧の姿勢で臨む必用はなかった」(同:339)とも論じ、この点においては村上の議論を批判する。
 島薗は戦後における国家神道の継続を以下のような視点から認める。すなわち、「神道指令」による国家神道解体後の現代日本の宗教構造について、「二重構造が完全に『解体』してしまったわけではなく、異なる形で存続していると見る見方も十分に成り立つはずである」(同:341)と、権力構造の聖化と私的領域における諸宗教の活動との併立を戦後社会にも見る視点を示す見方である。
 島薗は「二重構造」を「分業」ととらえる。しかし、この分業は対等なものであろうか、島薗自身の明言はない。島薗自身が記すように、「民心の安定と国家の富強に有用である限り」(同:339)に諸宗教が認められ、非常時には抑圧され、「世俗秩序の宗教的聖化システムを著しく肥大化させることになった」(同:340)近代日本の宗教構造を考えれば、この「分業」は不平等なものであったと言わねばなるまい。諸宗教は聖なる権力の補完機能を果たす限りにおいて認められたとみるべきであろう。
 菱木は教義の継続という視点から、島薗は権力構造の聖化と私的領域における諸宗教の活動の併存という「二重構造」の継続という視点から、それぞれ戦前・戦後における宗教状況の継続を主張する。(村上の論じる「復活」は少なくとも一時の「断絶」を前提とするが、戦前と「復活」後の戦後に同質のものを見出す点では「継続」論と対立するものではないと理解し得よう。)菱木もまた「支配イデオロギー」(後述)として権力構造を聖化する宗教の機能を論じている。宗教が権力構造の聖化という視点から見られる限りにおいて、戦後の国家神道の継続に対する批判は諸宗教に対する批判を超えて、宗教そのものに対する批判となって現れざるを得ないといえよう。


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