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zoom RSS 沖縄の「復帰」とキリスト教(3)

<<   作成日時 : 2010/02/16 13:36   >>

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宣教師たち
アメリカ人宣教師たちと戦後沖縄キリスト教

 戦後沖縄にはアメリカから多数の宣教師たちが訪れ、宣教や社会活動に携わった。日本他府県からの宣教師や、沖縄出身の宣教師も存在したが、アメリカ人宣教師の数は圧倒的である。戦後沖縄キリスト教はアメリカのキリスト教の(ほぼ)独占的影響下に生まれ成長し、やがて独立してゆこうとしたと理解して間違いではあるまい。
 宣教師たちの言動がいつでも沖縄の教会指導者や信徒たちに喜んで受け入れられたわけではない。沖縄キリスト教会は1954年に自らの手により「信仰告白」文を制定したが、翌1955年アメリカ・メソジスト教会の宣教師たちは5名連名で同信仰告白がスウェーデンボルグの教説に影響を受けたものであるとし、またその制定過程に規則違反があり、宣教師団は相談も受けていないとして反対し、信仰告白の制定を無効とするよう求める声明を出した。スウェーデンボルグの神学は異端的とみなされていた。
 これに対し、沖縄キリスト教会理事会はただちに理事長以下12名の連署により「特別報告書」をもって反論し、特に2名の宣教師に対しては「御自分達の欠点や短所は少しも反省なさらず、常に沖縄キリスト教会の欠点だけを前以って話し合うことも殆どなく突然公に爆弾的怒りを以って非難攻撃し、併も曲解と誤解の上に立って他を審く非クリスチャン的態度の故にかくの如くトラブルが大きくなりました」と非難している。(cf.日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室1998)

宣教師団の声明、沖縄キリスト教会理事会の「特別報告書」は下記に収められている。
日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室1998『日本基督教団史資料集』(第3巻)369-376。


 もちろん、逆に沖縄の人びとの中に入り、沖縄の人びとのために語り、沖縄キリスト教の自立を支援しようと努めたと評価される宣教師たちもいる。比嘉善雄はアメリカにわたり神学を学んだのち自らも沖縄に宣教師として帰り、沖縄キリスト教会の理事長をも務めた人物であるが、その著作(比嘉1978)中にマシューズ牧師なる人物がその説教において「戦争ほど父なる神を悲しませることはない」とし、「結果的には強いアメリカが日本をいじめ、皆さんが、こういう悲惨な状態に置かれた。アメリカ合衆国の国民の一人としてほんとうに申し訳ない」と語ったと記している(cf.同上書)。宣教師の人物評価は本稿の目的ではない。ここでは評価は離れ、沖縄に深く長くかかわった特徴的な宣教師を紹介することとしたい。

マシューズ牧師の説教部分は下記所収。
比嘉善雄1978『わたしの戦後秘話』(琉球文教図書)127-129。
(日本基督教団宣教研究所教団史料編纂室1998:334-335)。


ベル宣教師
 オーティス・W・ベル(Otis W. Bell)宣教師は1950年来沖、メソジスト系の宣教師であり、沖縄キリスト教会時代(1950-52年、53-57年)を沖縄で働き、その後も日本にて1969年まで活動した。沖縄キリスト教団と日本基督教団との「合同」に際しても日本基督教団総務局主事として関与している。
 沖縄在任中の1954年、米軍の強制的土地収用を目撃し、この事態の不当性を訴える論文を『クリスチャン・センチュリー』紙に投稿したことで知られる。”Play Fair with Okinawa”と題するこの論文は国際人権連盟議長ボールドウィン(R. N. Baldwin)の目にするところとなり、日本人権協会による沖縄調査、その後の朝日新聞による記事「米軍の沖縄民政を衝く」(1955年)につながっていったとされる。日本他府県とアメリカの目(の少なくとも一部)を沖縄に向けさせる先駆けとしての役割を果たしたと言えよう。

ベル宣教師の論文は以下に収められている。
Christian Century, Chicago, Christian Century Foundation, Jan.20.1954.
Bollinger, E.E., 1983 The Cross and the Floating Dragon, William Carey Library, California.
日本基督教団沖縄教区編1971『27度線の南から −沖縄キリスト者の証言』(日本基督教団出版局)366-373。
日本基督教団宣教研究所教団史資料編纂室1998『日本基督教団史資料集』(第3巻)360-364(川平朝清訳と記される)。


 沖縄を去った後、同宣教師が公的に沖縄とかかわったのは、先述の如く、沖縄キリスト教団と日本基督教団との「合同」にあたり、日本基督教団側の人間としてこれの推進に貢献した時である。すなわち、両教団の「合同」をまじかにひかえた1967年5月ふたたび沖縄の地を踏み、「合同」のための協議を行っている。この時の10年あまりをへだてた沖縄教会の印象が「12年ぶりの沖縄」と題する一編の記事にまとめられている(沖縄キリスト教団機関紙『道しるべ』1967年7月号3ページ)。この記事もまた、沖縄と沖縄の人びととに対する同宣教師の思いがよく伝わる記事である。記事中、「1950年と1967年の沖縄の印象」を語るとし、自然・景観の大きな変化とならび次のように論じて、「心」の変化に警鐘をならしている。

 沖縄の人々は米国と沖縄の全く異なった二つの文化の中に住んでおり、その内面の心の思いは想像するに大変なことである。沖縄の人々の誰一人として、米国の軍事力から逃避する事ができない。それは将来を担う子供たちやその時代にどれ程感化を与えるか分からないのである。私は沖縄の習慣文化、歴史がなくなりはしないかと非常に恐れる。もしそういう事になると単に沖縄のみに限らず世界にとって大きな損失をこうむることになるだろう。


 ベル宣教師はまた「社会問題」に言及し、「沖縄人の平均収入と米国人のそれには比較できない差があるが、これは非常に危険である」という。「というのは収入の多い者は少ない者を奴隷か又は不平等な者として見下すし、それに(収入の少ない者)[引用者補注)は“しかたがない”との諦めの態度と無意識の中に“奴隷の役”に甘んじる傾向があるからである。」「私は沖縄の人々に、彼らに背き抵抗することを強調したい。 −中略− 我々は霊的に僕であるべきだが、経済的に僕であることはできないはずだ。」同宣教師の思いの伝わる記事である。
 ベル宣教師は1969年に日本を離れ、オハイオ州在メソジスト教会の牧師を勤め、1986年以後はオハイオ州ポーツマスに暮らしていると記録されている(クランメル1996:17)。

クランメル、ジャン・W, 1996『来日メソジスト宣教師事典 1873-1993年』(教文館)。

リカード宣教師
 ハロルド・リカード(Carleton Harold Rickard)宣教師は1951年に来沖し、沖縄キリスト教会時代を中心に1956年まで農村伝道に従事した後、1956年から1967年までは石垣島にて農村センターを指導した。「与那原及び西表島に初めての福音伝道を開始」(クランメル1996:214)した宣教師とされる。前述したベル宣教師の同僚でもある。
 1955年5月、仲里朝章牧師により伊江島における米軍の強制的土地接収の事実を知らされ、マリオ・バーベリー(Mario Charles Barberi, Jr. 在沖1952-1977年)宣教師とともに伊江島を訪れ、阿波根昌鴻をはじめとする伊江島の人びとと出会った。阿波根との交流はその後もつづき、同氏の写真集『人間の住んでいる島』の英訳(The Island where People Live, Hong Kong, Christian Conference of Asia, 1986) を完成し、出版している、同書に付されたリカード宣教師の序文は邦訳されているが(後述、訳者不詳)、同宣教師と伊江島、阿波根との関係などを語っており興味深い。
 序文によれば、1955年5月18日、伊江島にわたったリカード、バーベリー両宣教師は阿波根とその同士たちと面談し、「彼の、彼らのおかれている状況の的確な説明力に、彼の静かな力強さに、そして強い決意に」感動した(阿波根1982:6)という。

阿波根昌鴻1982『人間の住んでいる島』(英語版日本語訳、エリオ出版社)。


 両宣教師は伊江島から沖縄島にもどると、時の高等弁務官ムーア司令官に面会を申し入れ、6月8日同高等弁務官と会い、人道的見地からした問題解決のためのいくつかの提案を行っている。
 両宣教師の努力は残念ながら実を結ぶことなく、リカード宣教師は1956年1月に八重山へ移動する。彼が「プライス勧告」を知るのは移動の後であった。同宣教師はその後沖縄を離れた後も、沖縄に伊江島にかかわりつづけた。
 「序文」の結び近くには次のように記されている。

 もし、予言者(引用者注、原文のママ)ここにいたならば、沖縄の米軍存在についてこう言うだろう。「公道を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ。」と。
 一国民として、そしてこの国の市民でもある一個人として、私たちは主の御霊によって、即刻の行動を、持続する行動をするように、召されている。私の信念である。主は自らの使命と目的、方策をこのような有名な言葉で述べられている。
 「主の御霊が私に宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、私を聖別してくださったからである。主は私をつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである。」(阿波根1982:9)


ボーリンジャー宣教師

 ボーリンジャー宣教師(Edward E. Bollinger)は1955年、沖縄バプテスト連盟創立時に沖縄に赴任し、1985年まで30年にわたり活動した。初訪沖は1953年であり、この時の経験により沖縄伝道を決意したと伝えられる。1943年より1946年は米海軍のチャプレンとして、また来沖前1951年よりは大阪で活動していた。アメリカン・バプテスト教会派遣宣教師である。
 沖縄バプテスト連盟は現在沖縄におけるプロテスタント諸派中の最大教派に成長したが、その大きな立役者のひとりである。沖縄バプテスト連盟の特徴をなした「天幕伝道」は同宣教師の発案になるとされる。自らの運転するトレーラーに天幕を積み、沖縄各地に活発な伝道活動をなした(cf.沖縄バプテスト連盟宣教百年歴史編纂委員会1993)。

沖縄バプテスト連盟宣教百年歴史編纂委員会1993『沖縄バプテスト宣教百年史』(沖縄バプテスト連盟)。

 ボーリンジャー宣教師には著書も多い。蔡温の研究書Saion, Okinawa’s Sage Reformer,(Ryukyu Shinpo Newspaper, 1975)のほか、沖縄キリスト教史 The Cross and the Floating Dragon(William Carey Library, 1983)。また、極東放送における講話をまとめた Reflections, East and West: Views from Okinawa (Dixon Press, Ltd., 1978) 等である。
 次項に記すランドール宣教師との間には在沖米軍基地に対する姿勢などにおいて対立があり、ランドール宣教師の処遇をめぐる問題においては沖縄バプテスト連盟内において激しい批判も受けた(この件をめぐっては後段にて詳述する)。
 米国の政策に関しては、在沖米軍および同基地につきこれを肯定する立場にあったものと判断されるが、基地の存在にともなう被害については沖縄の人びとを守る論説も公にしている。『クリスチャン・センチュリー』紙に掲載された「毒ガス移送」問題に関する記事(Bollinger1970)は、沖縄に毒ガス兵器が貯蔵されていることが知られ(1969年7月)、沖縄における米軍当局が69年1月撤去開始、3月撤去終了を約束してからなお撤去がなされていないことを指摘し、また地元新聞を通しアメリカに予定されていた移送先において反対があり移送が止められてることを沖縄の人びとが知るところとなり、怒りが高まっていると指摘する。反対するオレゴンやアラスカの住民がもつ市民としての権利をもち得ず、危険とともに生活することを強いられているのが沖縄の人びとの状況であり、沖縄の人びとの「被支配者としての被差別経験からくる深い怒りと屈辱の感情は沸点に達している」と記事は結ばれる。

Bollinger E. E.,1970 Okinawa: The Poison Gas Issue, The Christian Century( Christian Century Foundation, Chicago, July 22).

ランドール宣教師
 ウイリアム・ランドール宣教師(William T. Randall)は1933年生まれ。1968年にはじめて沖縄の地を踏み、1年間神戸にて日本語習得の後、1969年から1979年まで、途中2回の休暇をはさみながら、アメリカン・バプテスト教会派遣宣教師として沖縄バプテスト連盟にて活動した。同連盟では主として学生伝道にたずさわった。妻も夫とともに沖縄に働き、ISAO(国際福祉沖縄事務所)等で沖縄の混血児問題にかかわっている。大城(1985:70-76)にはこの分野でのランドール宣教師夫妻の活動が記されている。

大城将保1985『混血児』(国際情報社)。

 同宣教師はガンジーの思想と行動とから大きな影響を受けているという。同宣教師は1976年6月末日をもってアメリカン・バプテスト教会より解任されるが(この問題については後段に詳述する)、その後も沖縄にとどまり、沖縄キリスト教短期大学講師を経、1986年沖縄国際大学に採用される(1999年度より特認教授、その後退職)。著書にOkinawa’s Tragedy(沖縄あき書房、1987)、Social Justice through Nonviolence in Twentieth Century: A Peace Studies Reader on Mohandas Gandhi and Martin Luther King, Jr.(東洋企画、2001)[邦訳、『非暴力思想の研究 ―ガンディーとキング』(東洋企画、2002)]がある。
 ランドール宣教師は来沖直後から軍隊の力によらない平和を訴えている。『沖縄バプテスト』紙(1974年5月号、p.1)には同宣教師の「悔い改めにふさわしい実を結べ」と題する記事(説教)が掲載されているが、同記事はこの宣教師の平和思想をよく示している。
 思想と行動とは結びついていた。同宣教師は「平和をつくる沖縄キリスト者の会」(後述する)に加わり、「復帰」前後の沖縄社会の中で非暴力の立場から「ベトナム反戦運動」「基地問題」をめぐる運動等に積極的な関与を示している。後述するように、沖縄ではアメリカ人宣教師たちがベトナム戦争を「義戦」とし、その勝利のために祈祷する姿がみられ、沖縄県民キリスト者からはそのような宣教師たちの行動に疑問の声もあげられている状況下であった。
 ランドール宣教師は1979年アメリカン・バプテスト教会より宣教師職を解任された。同氏はその信念から、沖縄で宣教師に交付されていた基地出入りの「自由通行許可証」を受け取らないこと等により自らの思想を実践にうつし、また宣教師、教会指導者たちと議論したという(後述する)。同氏のこのような言動は沖縄バプテスト連盟に派遣されていた宣教師団との摩擦を生じ、これがアメリカン・バプテスト側の解任へとつながっていったようである。
 この解任をめぐっては派遣先であった沖縄バプテスト連盟内で、同氏の平和主義的言動が解任を引き起こしたとする理解から、問題を「信仰と良心の自由」の問題としてとらえ、解任に反対する人びとも現れ、解任を容認しようとする人びととの間に激しい議論を引き起こした。
 同宣教師をめぐる問題は、沖縄バプテスト連盟内の問題ではあるが、沖縄におけるキリスト教の在り方そのもの、あるいは沖縄を超えより広くは軍事環境下における、さらに関心を広げるならば植民地状況下におけるキリスト教の在り方の問題に大きな問いをなげかけるものであると言わねばなるまい。
 ランドール宣教師は2009年4月6日、長年にわたる宣教、教育・研究、牧会活動を終え、沖縄を離れた(『沖縄バプテスト』紙2009年5月号、p.8)。

『沖縄バプテスト』は沖縄バプテスト連盟発行の機関紙。

 ボーリンジャー宣教師はその著書(Bollinger1983)中に、ベル、リカード両宣教師の土地問題への関与を両宣教師の著作等を引用しつつ記述している。その記述によれば、リカード宣教師は名護周辺に教会関係用地を探し歩く中で「アメリカ軍は沖縄をすべて買い占めようとしており、キリスト教会はそれを手助けしているのだ」との世評を耳にしたという(ibid.:186-187)。
 沖縄のキリスト教会は「土地闘争」期に目立った行動をとったようには思われない。その上、宣教師はアメリカ人で、軍のチャプレンとの交流もあったとあれば、世評はいたしかたない面もあったのであろう。前述したように、ベトナム戦争期には宣教師たちがその戦争を「義戦」とし、勝利の為に祈りをささげていたことも、その姿勢に対する疑問とともに沖縄キリスト者の証言の中に記されている。沖縄キリスト教団機関紙『道しるべ』には次のような信徒の声が記録されている。

 宣教師はベトナム戦争は義戦だと説教の中で云われたが、私にはそれが主イエスへの不忠誠に思えて不可解でならない。教団の定期総会で軍服姿のチャプレンが祝辞を述べるのも私には香ばしい(引用者注:原文表記のママ)ことには思えない。教会と軍服は何処でどう関係があるのだろうか。(『道しるべ』1966年10月号、p.5)


 宣教師たちの行動はアメリカの政策と結びついていたか、あるいはそうではないのにそう見られた。宣教師たちのキリスト教から脱し、沖縄の教会の自立を達成しようとの動きはベトナム戦争をはさんでますます活発になったようにも思われる。そのような中でも沖縄に強い思いを寄せ福音宣教と沖縄の人びとのために活動しようとした宣教師たちもいた。
 もちろん沖縄に活動した宣教師たちはきわめて数多い。ここでは筆者が記し得る限りでのビッグネームを取り上げたにすぎない。
 戦後沖縄のキリスト教の歩みは濃厚な軍事環境下における宗教の機能、とりわけ支配的立場にあった人びとの宗教(ここではキリスト教)の機能を考察する重要な事例であると考えられる。以下、そのような視点から記述をすすめてゆく。



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